食品冷凍学の功労者、故小嶋秩夫先生お別れの会、くしくも業界50年目の日
8月12日、東京海洋大学品川キャンパスで、本年5月11日に逝去された故小嶋秩夫先生のお別れの会が開催された。ご遺族は密葬でとの意向であったが、先生に食品冷凍学の指導を受けた方々から声が上がり、先生の御次男で東京海洋大学准教授、小嶋満夫氏も臨席して約100名の偲ぶ会となった。発起人は髙井陸雄東京海洋大学元学長・名誉教授、そして現代の食品冷凍学の権威である、同大の鈴木徹教授。出席者のほとんどが同大の前身、東京水産大学で小嶋先生の指導を受け、また、共に夜遅くまで杯を交わして冷凍食品の未来を語り合った方々である。みな笑顔、であった。冷凍食品を愛し、楽しく語り、温かく人を育てた故人への感謝、思い出を語り合い、和やかな雰囲気に包まれた会場であった。
遺影は教え子が学んだ教科書「食品冷凍工学」に模した書籍に見立て、先生の愛した季節の草花をあしらった祭壇だった。お供えは魚。小嶋先生が考案し、後に新入生の実習に採用されて今でも続く「ニジマス燻製」である。魚の命をいただき、内臓、うろこを処理して、加工するということを最初に学ぶプログラムだ。
東京海洋大学竹内俊郎学長からは、故人の褒章受章、叙勲の報告があった。晩年オホーツクキャンパスで指導にあたった東京農業大学からは、髙野克己学長が出席し、やはり学生と語り合い、育てる小嶋先生の心温かい指導にふれた。
遠く台湾から来日した教え子、陳建斌氏(行政院農業委員会前農糧署長、現財団法人農業科技研究院院長)は、1981年に修士留学、マルハ(大洋漁業、現マルハニチロ)で1年働き、帰国して行政院農業委員会へ。1980年代半ば、小嶋先生を招き開催した食品冷凍学講演会は大盛況だった。台湾で冷凍食品協会発足(1990年)の機運が高まったとき、「小嶋先生のご紹介で日本冷凍食品協会を訪ねて学び、台湾での協会設立へとつながった。ご長男は私の学友。私は小嶋先生を『日本の親父』と思っている」と語った。陳氏は農業委員会職員の立場で再度同大学院に留学し、博士課程を修了している。
1990年は、わが国冷凍食品業界の草創期に業界人が夢を描いた『国内生産高100万t』を突破した年である。一方、当時台湾の冷凍食品業界は、枝豆をはじめとする冷凍野菜や海老、鰻蒲焼の輸出が主体であったが、これからは国内向け冷凍食品を育てようと、新規メーカーが数年前から相次いで事業に着手した時代であった。認定工場の規格、取り扱いマニュアルなど日本を手本に「CAS」制度を整備し、同制度は後年多様な食品産業界の規格として発展する。1990年、台湾の冷凍食品メーカー15社は、日本冷凍食品協会の海外会員にも登録された。台湾の近代的加工食品産業の第1歩が冷凍食品であり、小嶋先生はそのガイドを務めた功労者なのである。
私はまさに、陳氏と後に協会執行長に就任する沈永銘氏(現在も)が日本の協会を訪問した際に居合わせた。ご縁を頂き、台湾の協会発行の年鑑や会員情報誌発刊にあたり情報提供をした。新しく冷凍食品産業が立ち上がり、素晴らしものを発展させようと意欲に満ちた方々の取材は楽しかった。日本の協会が設立された1969年(昭和44年)も同様の熱っぽさがあったのかなぁと感じた。
さて、小嶋先生お別れの会が開かれた8月12日は、ちょうど49年前(1969年)、日本橋三越の「不二の間」で日本冷凍食品協会の創立披露パーティが開かれた日だ。時刻も同じ午後3時から5時であった。つまり、今年8月12日は、業界スタート50年目の日。何という巡り合わせか、主催者も気づかぬ偶然であった。
小嶋先生が国立衛生試験所を経て東京水産大学講師に転じたのは1965年。晩年「冷凍食品新聞」にコラムを寄稿頂いた際、食品冷凍学への転身は、「保存料の研究をしていた時に食品の変化を確認し、驚いたこと」が契機だったと明かされたことが印象的であった。「いかに安全にいかに美味しく保存するかに情熱を注いだ」(高井先生)研究者だった。
健康な生活に役立つ食品が冷凍食品。酒を真ん中に、私も幾度か、いろいろな角度から冷凍のなんたるかをご教授いただいた。50年目に突入した業界は、小嶋先生の「いかに安全にいかに美味しく」という情熱を振り返り、受け継ぎ、さらに発展させる決意をしなくてはならない。冷食協創立披露パーティと日時が合致したお別れの会の日に、「偶然にしても先生、でき過ぎですよ」とつぶやきながら、そんな思いを巡らせた。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。感謝。合掌。